-南北線ルートをめぐる混乱、建設開始-
 
 
1971(昭和46)年7月、大通3丁目の広場にて札幌地下鉄計画1号線。つまり南北線の起工式が行われ
紆余曲折を経た札幌市交通の近代化は幕を切った。

建設ルートは新設される定山渓鉄道南平岸駅構内を基点(0キロポスト)として、南平岸〜平岸間で地下に潜り
ススキノ、大通、国鉄札幌駅地下を地下線で走り北24条駅を終点とするルートである。
当初、市電すすきの〜北24条間は廃止の方向で計画していたが、オイルショックによる自動車不信と欧米での路面電車復活のニュースを
聞き、残す方向で行けないのか?と言う議論が出てきていた。
特に衝撃的であったのが自動車王国アメリカのサンディエゴやボストン、姉妹都市提携を結んでいたポートランドで新規に路面電車が
建設されていると言う事実であった。
すすきの〜北12条間は混雑区間であり地下鉄開通後もさらに混雑は続くと推測され、地下鉄を快速線、路面電車を緩行線の様な扱いに
して料金を共通化すれば両方の混雑防止になると言う事が強調され、結局すすきの〜札幌駅前は残る事が決まった。
同時に市電と地下鉄の乗換えを容易化するため、当初2面2線で設計されていた中島公園駅を拡幅して2面4線へ変更。ここに市電を延長の上
乗り入れさせる形となったが、残念ながら相互直通乗り入れは輸送規模や加減速能力、保安機構、架線電圧などの関係で見送らざるを得なかった。
同時に北24条駅も市電との接続を図るために中島公園と同様の構造を取る事が検討されたが、将来地下鉄が麻生方面へ延長される事になれば
2重投資になりかねないと言う事で中止となり、島式2面4線の退避線を持つ駅へ設計変更された。
この地下鉄を高速線、路面電車を緩行線として運行するアイディアは、本来なら受け入れられ無さそうにも思えるが
ある意味オリンピック誘致計画で特徴的な交通システムを作ろうと画策していた札幌市の贅沢であったとも言える。

同時に、札幌市の後ろ盾で東急グループでの発言権を増した定鉄が当時経営難に陥っていた札幌臨港鉄道の建設計画に目を付け
石狩方面への新線建設計画を暗に示唆していたのだ。
鉄道経営自体は赤字であり、札幌市の施工による公設民営でなければ近代化工事などできる話でも無く、藤野・簾舞地区の住宅地開発による不動産を初めとする副業収入も
決して潤沢でなかったこの時期に新線建設計画とは無謀に思えるが、当時石狩湾新港や花畔団地の開発が始まり、人口増加の気配を見せていた
石狩町は十分開発に値する地域であったのだ。茨戸方面への路線延長で固まっていた考えはここで中止され、後に麻生方面へ延長される際の
新琴似開業はここでフラグが立ったとも言える。

豊平川、中島公園を潜るシールド工事などに手間取ったが、建設そのものは順調に進み
1976(昭和51)年12月、南北線は大通駅にて全線レール締結式を迎えた。
軌間幅は定鉄との絡みもあり国鉄標準の1067mm。全線50kg/m重軌条ロングレール、コンクリートスラブ軌道採用。
電化方式は直流1500V架空線(シンプルカテナリー)方式。保安システムは地上区間が速度照査装置付きATS、地下区間は
東急式CS-ATC・ATO併用と言う当時最新鋭の装備を誇っていた。

 地下鉄を通常方式で建設するに当たり、特に騒音対策には気を使ったと言う。
オリンピック落選以前に研究されていた札幌方式と言われていたゴムタイヤ方式も、元々騒音対策と急勾配での粘着力向上を目指して開発されたものであり
この騒音対策の厳重さはゴムタイヤへの夢を捨てていなかった市交通局技術陣のせめてのもこだわりだった。
レールの新幹線式楔形接続や当時としては異例の1km溶接、防振ゴム装備や高架線区間のダンパー設置など
オイルショック直後の緊縮財政下とは思えない重装備っぷりである。
他に見られない特徴としては真駒内までの高架区間を覆う巨大なシェルターが上げられる。
これは高架化により、線路の排雪用スペースが限られるために対策として考え出されたもので
地下鉄車両が乗り入れる真駒内まではシェルターの中を走る事となった。

時期を同じくして定鉄南平岸〜真駒内南町間の高架複線化、真駒内南町〜簾舞間の複線化工事も終わり年が明けた1977(昭和52)年3月、南平岸駅構内でのレール締結式を持って定山渓鉄道本線と札幌市営地下鉄南北線は連結された。
同時に定鉄本社も豊平から澄川に、豊平車庫は真駒内緑ヶ丘へ移転し、いよいよ東札幌〜南平岸の廃止が秒読み段階に入った事を臭わせていた。

付帯設備工事と念入りな検査のあと、1977(昭和52)年10月に自衛隊前〜真駒内間に新設された緑ヶ丘車両基地へ初めて新車両の入線を迎えた。
車両の札幌到着後まもなく試運転と乗員訓練が始まり、石切山駅の近くに仮設された新線・旧線の切り替えポイントの周りは
休日となると新旧車両の交換を撮影する鉄道マニアと近隣の住民でにぎわう事となった。

年が明けて1978(昭和53)年3月17日。先に手稲町と合併した札幌市の人口は100万を越え、以前から認可を求めていた政令指定都市となった。
それを祝うかの様に札幌市営地下鉄南北線及び定山渓鉄道南平岸〜真駒内の高架化、真駒内〜簾舞の複線化開業となり
街は熱気に包まれた。
 さらに1984年の冬季オリンピックが2度目の開催を目論んでいたボスニアのサラエボ市を破り、札幌での開催が決定したのだ。
1966年の総会で流れた後、いつか札幌でオリンピックを開けた時のテーマに…と作曲されていた「虹と雪のバラード」が市内を流れ
市内はお祭り騒ぎとなっていた。

だが、華やかな地下鉄開業・オリンピック祝賀ムードとは裏腹にこの前日、定山渓鉄道の旧線は最終電車の運転を持ってひっそりと運行を止め
東札幌、豊平、学園前の各駅は機能を停止した。
全線廃止と言うわけではなかった事と地下鉄開業人気に呑まれたのか、それほど派手なさよならキャンペーンは行われず実にひそやかな最終日だったと
当時の新聞と鉄道雑誌4誌は伝えている。
同時に、電化以来活躍していた定鉄型と言われる車両群も湘南フェイスで知られるモハ1201型+クハ1211型と車体更新車モ2301+モ2302型。
モ2103+2104が簾舞以南運転用に緑ヶ丘電車区へ転属した以外はすべて豊平車庫跡地に集められ、既に長野電鉄へ移っていたED500型と
国鉄乗り入れ用気動車キハ7000、7500が津軽鉄道へ貰われていった以外、全車豊平車庫と運命を共にした。
大谷地の札幌市交通記念館にかつて地方私鉄では異色といわれた2等電車、モロ1101+クロ1111が原型復元の上保存されているのがせめての救いと
言えるかも知れない。
線路敷地は将来の東西線開業時の連絡線のために札幌市へ売却の上、保存される事が決まっていたが
豊平車庫については整地の上、じょうてつ不動産の大型マンション建設が行われる事が決まっていたのだ。

こうして定山渓鉄道は地方私鉄から大都市近郊鉄道への脱皮を成功させ、同時に札幌市電も日本に置けるLRTのさきがけとなるべく
下地を整えつつあった。